志田征也さんが亡くなりました。
  会葬時いただきました、H24年2月の南米旅行の紀行文を以下に掲載します。
  昨年お花見でお宅におじゃましたときいただいた、カラファテのジャムの味とその言い伝えを思いつつ、
  故人をしのび、ご冥福をお祈りいたしたいとおもいます。


征也二人の南米旅行 その1;パタゴニア(H24.2.11〜2.21)
               岡元 征也(S36) 志田 征也(準会員)

 2.11成田を発ち、約30時間の長旅を終え、征也兄貴(岡元)と私(志田)を含む
一行7人は2.12朝(現地時間)地球の裏側チリのサンチヤゴに到着した。

 旅行の前半パタゴニアはK社のバックパッカードトレッキングに応募したもので、日本
から同行のK社ガイド小林氏と応募者6人(男3、女3)が構成メンバー。我々2人を除
き、メンバーは皆、旅慣れた、いや、旅ずれた変人ばかり。熊本からのビール腹のB女、
大阪の乗り物狂のN氏、無愛想極まりないY女、それにフーテン娘のK子。<もっとも、
我が征也兄貴も相当なフォト(カメラ)キチか?>こんな連中とは、合いっこない。<俺
流でゆくしかない>と腹を決める。大体、一匹狼で地球の裏まで足を伸ばそうという連中
は変人ばかりに決まっている。<B女、歩けるのかな〜?N氏、山に登ったことないん
だって。>

 2.12pm 12:30ホテルで小休憩後、サンチヤゴ市内見物に繰り出す。地下鉄で
魚市場、モネダ宮殿、大聖堂の見学へ。N氏は早速、記念に切符を買ったり、ホームの端
で走ってくる電車写真を撮ったりで大忙し。モネダ宮殿は1973.9の反左翼系クーデ
ターにより、当時のアジェンダ大統領が自殺に追い込まれた場所として有名、また、魚市
場は築地ほどではないが、なかなかのものである。戻って、ホテル近くで夕食。本場チリ
ワインを皆で楽しむ。勝手気ままな一匹狼連中だが、全員、酒好き。B女は“ビール、ビ
ール”とつぶやく。皆で飲むにつれ、少し和む。<こりゃ救いだ。やはり、酒は潤滑油よ
>。翌2.13朝11時過ぎ、約2500km南のパタゴニアに向け、飛び立つ。高度が
あがると、眼下にアンデスの雪山。アンデス山脈の最高峰<アコンカグアは確かこの辺だ
が>と探すが雲海で判らず。飛行機はどんどん南下を続ける。いよいよパタゴニアだ。
 パタゴニアは南米大陸の南緯40度より南の地域の呼称で、大足パタゴン族が住む土地
の意味。チリとアルゼンチンにまたがり、約30の国立公園がある。我々はパタゴニアの
中でも南端に近いハイネ国立公園や名峰フイッツ・ロイ近辺(そこでも最南端のホーン岬
から200km足らずの距離)を旅する。パタゴニアについては、その魅力は数多く紹
介されている。旅を終えた今、この稿を書きながら思い起こすと、訪れた地域の情景が私
の好きなギターのアランフェス協奏曲の旋律にのり、頭の中を流れてゆく。第1楽章の主
題(魅力)はやはり、氷河と岩峰。第2楽章の主題は広大なパンパスと羊やグアナコの群
れ。<第3楽章はペルーの歴史と自然だが、それは征也兄貴の出番だ。>そして、変化に
富む雲と風、点在する氷河湖、茶色の草原のところどころにくすんだ緑の叢、時たま車窓
     
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から見かける馬に乗ったガウチョ、これ等が各主題をひきたたせる。第1、第2楽章に共
通するのはワイルドで雄大な大自然、やはりこれがパタゴニアの魅力だ。
 2.13pm15:00頃、チリ南端のプンタアレーナス空港に着く(南緯53度10
分)。マゼラン海峡を見る。対岸はフェゴ島でその南端がホーン岬だ。地図でみるとこの辺
の太平洋側は複雑なリアス式のフィヨルドだらけである。バスに乗り継ぎ、また3時間ほ
どかけてプエルトナタレスへ向かう。着いたのは夜8時頃だが外は未だ明るい。ここはハ
イネ国立公園の入り口の街で、街のシンボルはミロドン。約1万年前に絶滅した大ナマケ
モノで、2足歩行の復元模型を街の入り口などで見かける。以前、ワシントンのスミソニ
アン博物館で象ほどもある全身骨格を見たが、これも3メートルほどの大きさだ。ホテル
に荷を解き、遅い夕食へと街中のレストランへ。赤ワインとスープはまずまずだが、肉料
理はあまり美味くない。しかし、私とB女以外は食欲旺盛。B女はビールさえ飲めれば満
足か。無愛想なY女は黙々と飲みかつ食う。だんだん判ったのだが、彼女の足運び、1度
通った所の記憶の確かさは並みじゃない。<こりゃ(山歩きの)プロだ。(俺など)とても
かなわぬわい。>

 翌2.14は専用車で2時間強かけ、ハイネ国立公園内の山小屋に向かう。途中、広々
としたパンパスのところどころにグアナコの群れを見る。雪を抱いた山が次第に大きく眼
前に拡がる。昼頃に山小屋に到着。我々6人は2段ベッドが3つの1部屋を占め、ガイド
の小林氏のみ、他グループとの相部屋に入る。昼飯はサンドイッチを頬張り、足慣らしを
兼ねて往復4・5時間ほどのトレッキングへ。天気は変わりやすく、日が射したり、雨が
パラついたりで、風も時々強いが、ほとんどは弱く、寒さは感じない。<これがパタゴニ
アの気候か。>山裾に沿って回り込むように歩く。皆、速い。B女と私は遅れまいと懸命。
N氏も結構、速い。聞くと、自転車で鍛えているとのこと。<どうりで。> 小休止の時、
征也兄貴がガイドの小林氏にペースが速すぎると注意してくれ、その後は通常ペースにな
る。小林氏が空を指さし‘‘コンドルだ’’と。かなり高いところを大きな鳥が悠然と1羽、
舞っている。せいぜい20メートル以内の上り下りしかない平坦な道を約2時間行き、そ
こから今度は来た道を引き返す。山小屋の傍の陽だまりに蝶を見る。日本のカラフトヒョ
ーモンに酷似のヒョーモン蝶、それにモンキチョ一に似たシロ蝶だ。夕食まで時間がある
ので、食堂から赤ワインを仕入れ、征也兄貴と飲み始めたら、臭いを喚ぎつけたか、みん
な集まってきて、結局、全員で酒盛りとなる。フーテン娘K子だが、自称フラメンコとヨ
ガのコーチで売れない絵描きとか。日頃はウェイトレスなどのバイトもして、金が貯まる
と、海外を跳び歩いているらしい。相当のニコチン中毒だが、気立ては結構良さそうだ。
 2.15朝。手前の山の奥に朝日で輝くトーレス・デル・ハイネ くその中心はハイネタ
ワー)を撮る。ガスがかかり、すぐ見えなくなる。今日は、あの直下の展望所まで、たっ

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ぶり往復10時間以上のトレッキングだ。8:20出発。昨日辿った道を20分ぐらい行
き、そこから別れて登り始める。道は昨日と逆の反時計回りに、山を回り込みながら高度
を少しづつ上げる。途中の景色は緑も多く、眺望雄大。10:30中間小屋に着く。そこ
から先は林間コースで、1時間ほどで林がきれてガレ場に出る。そこで昼食のサンドイッ
チ。急なガレ場の氷河で運ばれた大きな石が積み重なる間や石上を1時間強、あえぎつつ
登る。天気は昨日と同じく、曇りだが、時々雨がパラついたり、日が射したり。展望所に
着く。約800メートルを登ったのだ。眼前に小さな氷河湖をはさんで、雲間からうっす
らハイネタワーがそそり立つ。3本槍(ハイネ・ソル、グランデ(3050メートル)、ノ
ルテ)と呼ばれる岩崎群。その基部には小さな氷河が眼下の氷河湖に続く。荘厳なスケー
ルに圧倒される。数年前に見たドロミテ(イタリア)のドライ・チンネンもすばらしかっ
たが、こちらのほうがもっと迫力満点。皆、しばし石に腰掛け、雲が切れ全貌が現れぬか
と待つが残念ながらダメ。帰途につく。ハイペースで下ると、”下りは結構、歩けるのネ”
とY女に褒められる。
 2.16は車で約3時間かけプエルトナタレスに戻り、午後は自由時間で洗濯や仮眠、
その後少し街をぶらついたりで、のんびり過ごす。チリ最後の夕食もワインで彩をつける。
 2.17早朝、専用車にて出発。8:30国境を越えアルゼンチン側に入る。広大な丘
陵と台地。パンパスの広がりの中、羊の群れと時折見かける馬に乗り犬をつれたガウチョ。
ゆったりとした時の流れを感じる。通常、羊の寿命は10年だが、ここパタゴニアの羊は
6〜7年、それだけ環境が過酷なのだ。車はカラファテを経由して、次なる眼目のペリト・
モレノ氷河を目指す。天気は快晴。カラファテから2時間、眼前に広大な氷河が現れる。
眩しい。ペリト・モレノ氷河は全長35km、面積約260平方km、末端押し出し幅5
km、高さ50〜60m、中心部は1日に2m、端部は40cm動く。我々は先ず100
人程度乗るボートで末端押し出し部に近づく。氷河から吹き下ろす風が冷たい。氷の壁か
ら100mほどに近づく。時々ドーンと崩落の音がするが、目撃できず。間近で見る迫力
も<スゲエもんだ。>ボートを降り、次は展望台にまわる。今度は整備された木造を上か
ら氷河を見下ろしつつ辿り氷河面の高さまで下る。眼前に広がる雪原は激しい起伏で源流
の山に続いている。こんなスケールの大きな氷河は初めて克る。今日は1日、天気にも恵
まれ、陽に輝く氷河を堪能した。カラファテのホテル“パタゴン”へ向かう。明日から2
日間は今回のパタゴニアのハイライトであるフイッツロイ近辺のトレッキングだ。
 南米のマッターホルンと呼ばれるブイッツロイ峰(3441m)の初登頂は60年前の
1952年、シャモニのガイドのリオネル・テレイとギド・マニヨーヌにより行われた。
テレイはその2年前の1950年のアンナ・プルナ(ヒマラヤの8000m峰)を征服し
たフランス隊の一員で名クライマーとして名を轟かせた人物。彼の著書(注記)より、そ

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の登頂を描写する。------”夏は短く晴天はわずかな期間のため、(雨続きの中、無理を押
した)ルート偵察の途中で仲間の1人が増水の川の渡渉中に溺死する。その後、三週間近
く、時速200kmを越えるこの世のものと思えぬ風嵐にさらされる。第1キャンプは突
風でテントがズタズタのため、氷河の中に切り開いた穴ぐらにテントを張る。第2キャン
プまでは、長いけれど比較的易しかったルートが、第3キャンプまでの標高差300mで
は、アルプスの大北壁に相当する氷と岩の壁となる。(各キャンプへの荷揚げ後、悪天候を
避け標高800mそこそこのベースキャンプで待機し、)好天を待って一気に第3キャンプ
に戻る。(翌日の)夜明け1降雪の中、最後の750mの岩壁の試登を開始するが、登肇は
極度に難しく、午後7時になっても120mも登れず第3キャンプに戻る。翌日は晴天無
風のチャンス。明け方、すぐ登等開始。前日の固定ザイルがあるにも拘わらず前日の到達
点まで4時間近く要し、時に人工登肇の力も借り、あたりが暗くなった頃、まだ半分も登
れずビハーグ。次の日、難かしいところは少なくなるが、やがて岩には薄氷が張りつめ、
アイゼンをきかせて登る。午後4時、ついに頂上に立つ。下山は絶望的な撤退で、18回の
懸垂下降で最初の固定ザイルにまで下がる。その時、嵐が来襲し激しい風雪となるが固定
ザイルのおかげで下ることができ、午後10時、疲れはてて仲間達の腕の中に身体を投げ入
れる。”
(注)リオネル・テレイ著 ”無償の征服者” 横川 文雄/大森 久雄訳(二
見書房)より抜粋(要約)。
 2.18朝、カラファテを発ち、フイッツロイ山群のトレッキング基地の街チャルテン
へバスで向かう。今日も好天でパンパスの中を真っ直ぐ伸びた道の前方、約100km先
に特徴的なフイッツロイ岩峰が遠望できる。しかしチャルテンの街中に入ると手前の山の
影となり岩峰は見えなくなる。10:30ホテル着。ガイドの小林氏の判断で、当初、明
日の予定だったブイッツロイの展望に、これからすぐ行こうということになる。11:3
0トレッキング開始。街はずれから山道へ入る。最初、やや急な登り、その後ゆるやかな
林間ルートを辿る。フーテン娘のK子、少しでも早く見たいのか”先に行ぐ”と、スタス
タと前に出て見えなくなる。約1時間半、歩いた時、突然眼前が開け、フイッツロイの雄
姿が現れる。雲1つない空の下、約10数kmほど先に天を突く岩峰が奪え、その基部に
は白く、青味を帯びて眩しく光る氷河を抱いている。<ウビヤ〜。こりゃ圧巻!>自然の
造詣の荘厳なまでの凄さをこれほど感じたことはない。しばし、石に腰掛けじーと見続け
る。風もなく、穏やかで暖かいせいであろうか?<わずか60年前、テレイの味わった凄絶
な戦いの場があそこなの〜?>牙を剥いて襲いかかっていた自然だが、最近は温暖化で牙
が丸くなったのか?更に第2、第3の展望ポイントへと1時間強、進む。フイッツロイが更
に大きく展開するが未だ10kmは先か。道はまだ先に続くが、我々はこの第3の展望ポ
イントまでで、引き返すことにする。もう1度、石に腰掛けゆっくりと雄姿を楽しむ。1
0mほど下をきれいな川の流れ。<これがテレイの仲間を瀕死させた川かも?>フーテン
娘K子、どこへ行ったやら見えず。これだけの好天は珍しく、ほとんどは雲がかかり、フ

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イッツロイの全貌を見たのは久しぶりとガイドの小林氏が語る。予定変更の彼の判断は正
解だ。すばらしいフイッツロイの眺めを堪能した我々は帰途につく。ホテルに戻るとロビ
ーに、はぐれていたK子の姿。皆ホッとする。夕食時、K子がしおらしく、”お詫びにワイ
ン、奢るわ”。皆で、今日のすばらしい眺望にめぐり会えたことに祝杯をあげる。
 2.19曇天。今日はフイッツロイに隣接し”世界で最も登るのが困難な山”といわれ
る針峰セロ・トーレ(3128m)の展望場所の1つである氷河湖までの往復トレッキン
グだ。リオネル・テレイは前記の著書の中で、セロ・トーレ初登頂に成功したトニー・エ
ッガーとチェザーレ・マニストリを称え”登山史上の最高の勝利”と評している。最初か
ら雨具を着用したスタイルで出発。昨日とは全く違うルートである。最初はやはり200
mほど登って丘程度の山を越えると、氷河谷のような風景が現れる。陽は全く射さず、時
折、少し雨のパラつく天気で、風は弱い。途中休憩をとりつつ林間、湿地沿い、渓流沿い
など、比較的平坦なルートを辿る。歩き始めて約4時間で、自濁した水を貯えた氷河湖の
畔に着く。昼食のサンドイッチを頬張りつつ、ガスが切れぬかと待つが、厚い雲のため針
峰はとうとう見れずじまい。<昨日が良過ぎた。今日は仕方ない>と帰途につく。征也兄
貴が ”これがカラファテの実だ”と小さな青い実を教える。鋭いトゲのある小灌木で、ち
ょうど今が甘酸っぱい実をつける時期だ。カラファテという街の名前はこれに由来してい
る。征也兄貴から”カラフアテの実を食べた旅人はまたパタゴニアへ還ってくる”という
言い伝えがあることも聞く。街に戻りつく30分ほど前の山を越える途中で、小林氏がまた
“コンドル!”と指さす。往復約8時間のトレッキングを終え、ホテルに戻り身体を休め
る。皆で、街のレストランに向かう。夕食時、うれしい演出あり。実は今日2.19は私
の満68歳の誕生日。(パスポートで事前に知っていた)小林氏が皆にそれを披露し、トー
レス・デル・ハイネのプリントされたシャツのプレゼント、次いで(先ほど特注させたら
しい)バースデーケーキ。皆からの思わぬ祝福を受けて、しばし胸が熱くなる。心暖まる
ささやかなパーティとなり、ひときわワインが美味い。B女、ビールを飲みつつ。”この雰
囲気、いいわネェ”。そういえば、<彼女も頑張って良く歩いたわい>。
 2.20晴れ。今日はチャルテンから、また、バスで3時間、カラファテに戻る。3日前
と同じホテル‘”タゴン”につく。この後はゆっくり休養だ。荷物のパッキングを終え、
征也兄貴と2人で昼食がてら街の散策にでかける。昼食は2人でピザとワイン。土産にカ
ラファテのリキュールとジャムを買う。<今夜でパタゴニアともお別れかア〜。>
 2.21晴れ。10:00カラフアテ空港着。2700km触れたプェノスアイレスに
向けて飛び立つ。眼下に広がるパンパスの色が茶色から、次第に緑色へと変わってゆく。
約3時間の空の旅で南米第2の大河ラプラタ河に面したアルゼンチンの首都(プェノスア
イレス)に到着。ホテルに荷を下ろし、16:00所用ある小林氏を残し、6人でタクシ

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一に分乗し25分ほどの港町カミニートを見物に行く。案内役はフーテン娘K子。通りに
は露店が連なり、生演奏に合わせタンゴを締るダンサー、マラドーナのそっくりさん、見
物人、観光客とそれ相手の土産物屋などで、喧噪があふれている。約1時間の見物後、ま
たタクシーでホテルに戻る。夜8時、全員でバスに乗り食事と、その後のタンゴショーへ
繰り出す。ショーは1流ダンサーによるタンゴの踊りに加え、民族楽器を使った歌や演奏
もあり、なかなかの見応えがあった。深夜12時過ぎ、ホテルに戻り、皆に別れの挨拶。明
日はツアー仲間と別れ、早朝4時起きで征也兄貴と2人きりで、友人の待つリマ(ペルー)
へ向かうのだ。ツアー仲間達はフーテン娘K子の発案で、帰国便の出発時間(夕方)まで
を利用して、ラプラタ河の対岸の隣国ウルグアイ見物を船で往復し、トンボ帰りでやると
のこと。<やはり、この連中は旅ずれた変人ばかりだヨ〜>。
 以上、征也二人のパタゴニア旅行は、ワイルドな大自然が次々とパノラマのように展開
してゆく中を、アレヨアレヨという間に過ぎてしまった感である。だが、少しではあった
が、その雄大な大自然に浸れ、肌で感じることができた満足感は今も残っている。<カラ
ファテの実をたっぷり食べたので、いつかまたパタゴニアに行くのかナアー>。
おわり(文責:志田)


 夫の母校、九州大学OBの中尾さんから
 『来年 九州大学山岳部OB会がペルーのトレッキングを計画しています。
  私は学会でペルーを訪問した折、準備を進めて来ましたが、
  その折、お世話になったペルー在住の大塚文平さんが
 <<九大のOBなら、幼な友達の志田君を誘ってきてくれないか>>
 と伺っているのですが・・・・・・』との思いもかけないお誘いでした。

 子供の頃より 蝶ちょを追って野山を駆け回り、自然大好き、大塚さん
 に会えるとあって、3週間余りのワイルドなトレッキングに参加、
 何とか無事に帰ってまいりました。これが定年後より国の内外を問わずの
 山行の始まりでした。そしていつの間にか、私も同行。ヨーロッパアルプス
 チロル、ドロミテ、ノルエー、NZと感嘆符ばかりの美しい自然の姿
 天空のお花畑、初めてザイルを付けて歩いた氷河、等々 思い出は
 つきません。
 ”征也二人の南米旅行”はOB会誌に寄稿した最後の紀行文となりました。
    旅より帰ってすぐに居間のテーブルで楽しそうに
 パソコンに向かっていたのを思い出します。

                                       志田 道子


回想

カラファテ

フィッツロイ